もう一本、長寿の「祝」の樹があった

―木に向かう(13)―

福岡幸一 (版画家)

2004年、仁木町の協力を得、『仁木町農村公園フルーツパークにき』で「北の果樹版画展」を開催することができた。リンゴ、オウトウの花が咲く季節であった。

私は「生娘」のある農園を訪ねた。「紅玉」の近くに1本の古木があった。根本にさらに新しい枝が育ち、花が咲く直前だった。僅かに開き始めた蕾は老木の幹との中で、素朴に可憐に美しく魅力的であった。私は「花のある作品」を制作したくなった。

農園主は「確かな記録は残ってはいないのだが、北海道に現存する120年を越えるこの祝と同時代に植えられた木ではないか」と語った。この「祝」は幹周り2mで主枝が3本あったようだ。現在は1本だけが残り、真横に突き出た3mの枝に実を生らし続けている。

この年の収穫期、実の重みでこの柱の先端が地面に落ちた。私は農園主に元の形に戻してほしいとたのんだ。2005年、残雪の中であらためて「かすがいのある古木の姿」をみた。その樹の存在感は見事であった。なぜ描かないできたのか不思議なほどであった。

りんごの花と古木
2005年 りんごの花と古木 ドローイング
私は花の咲く前に樹形を捉えるため農園を訪ねた。そこには古木の主柱が小枝を払われ変わり果てた姿で大地にごろりと置かれていた。どうにも描さようがない。大雪で「かすがい」がくずれ、雪解けと共に枝が落ちたのだという。私は心を鎮めて、古木と向き合い必死に下絵に取り組んだ。次の週、また驚いた。樹の根元にあの枝がない。農園主に尋ねると「もう要らないと思い、切ってしまった」とのこと。薪になって積まれた場所に案内された。10個ほどに切られた枝を捜してもらい、自宅に持ち帰ってきた。花の咲く時期、下絵の制作のため再度訪れると、農園はタンポポで黄色いじゅうたんのようだった。りんごの蕾は先がピンク色で、開くと真っ白になる。私はじっと樹を見つめた。日差しが強く2日で腕の皮が剥けるほど暑かったが、下絵を仕上げることが出来た。

2004年9月8日、余市地域では台風18号が風速40mを超える暴風となって、早朝から10時間に亘り、これでもかこれでもかと吹き荒れた(北海道では観測史上初の風速53mを記録)。50年前の1954年(昭和29)、通称洞爺丸台風の時は風速37mで、当時の北海道の果樹農園は大きな被害を受けた。その結果、「国光」「紅玉」中心からデリシャス系、ブドウヘの転換が行われたという。2004年台風で、仁木のある農園は800本中、倒れた木が250本以上だった。リンゴ、サクランボなどの果樹が台風にあおられ、隣の農園に150mも飛ばされた木が10数本あったという。20年保つといわれた添え木が倒れ、根が抜け、実を付けたまま大地に放り投げられた。その多くは14、15年を経、収穫の安定期に入った木が多かったのである。50本ほどは起こすことができたというが、今後20年以上影響を受ける由。深刻である。倒れた木は切って薪にするしかない。来る日も来る日も後片付けに明け暮れたという。「今後は根を張るプルンなどの果核類(実の中に種1個)に切り替えたい」と若い農園主は話してくれた。更に、冬には追い打ちをかけるように、大雪による台風以上の被害がでたのである。

地球の温暖化が進み、海水温度が平年より上昇したことによる50年ぶりの台風であったといわれている。

『美術ペン』119号(2006年8月25日発行)より

inserted by FC2 system