札幌の一番古い街道沿いにヤチダモの樹が

―木に向かう(5)―

福岡幸一 (版画家)

札幌駅裏。北6条東1丁目から東北へ斜めの道がある。その道は元町、伏古、丘珠、篠路、茨戸、石狩の海へと連なっていた。札幌で最も古い街道、旧元町街道である。その脇には寺院が数多く点在し、玉葱栽培で栄えた当時の札幌軟石倉庫が、そこ、ここにある。

この街道沿いの東区北10条東11丁目大覚寺脇に、原始林があった頃からの木が残っていた。幹には「ヤチダモ モクセイ科」のラベルがついている。

私は、この樹を30数年前から気に留め、見続けてきた。その枝は道路に大きくはみ出していた。ある時、一部の枝が枯れたのを機に、枝がバッサリ切られ樹形が大きく崩れた。早く描かなければと思いながらも、なかなか形にすることができないできた。道内各地で数多くのヤチダモの木を見てきたが、この樹は描いてみたい樹の一本だった。

2003年に入り私は、描くことを決意した。昼となく夜となく通いつづけた。からっ風が吹き雪が舞うころ、下絵の制作のためこの樹と対時した。葉を落とし樹形を見せたヤチダモの樹。3mを超える太い幹が真っ直ぐに伸びている。しかし、道路側の樹形が痛々しいほど崩れている。描き始めると切ない思いがこみ上げてくる……が、この樹が街道沿いの地に生き続けた宿命だったのか。描き上げるまでこの樹と向き合うのが私の仕事となった。一日中この場にいると、鳥たちがこの樹めざして、数羽、数十羽と何度も入れ替わり飛んできた。

「ヤチダモ」
2003 「ヤチダモ」(41.5cm×33.5cm)

「ヤチダモ」は「タモノキ」とも呼ばれている。名前の由来は谷地に良く生育するところからきている。また、弾力性と耐久性に富み、家具や野球のバット材に使われている。

ヤチダモの木には父との懐かしい思い出がある。もう二十数年以上も前、私がアンモナイトの化石採取を始めた頃、父に石割ハンマーの調達を頼んだ。大小2丁が届いた。父が採ったヤチダモの枝が柄に使われていた。そのハンマーで力一杯ノジュール(化石を含む岩石)を叩くと柄は大きく撓った。

1859年(安政5)、二宮尊徳の門下生・大友亀太郎は江戸幕府より「蝦夷地開墾取り扱い」の辞令をうけた。さらに1866年(慶応2)、「蝦夷地開墾掛」に任命され、石狩に入り原野を調査した。そして御手作場(模範農場)を開設すべき地を“サッポロ”と決定し、伏籠川のほとり(「札幌村郷土記念館」付近―北13条東16丁目)で開拓に着手した。当時この地はいたる所でクマやシカが出没し、繁茂した原始林の所々にヤチの湿地帯が広がっていた。

田畑の開墾の傍ら、生活基盤の道路、橋、堀(大友堀)などが整備された。ここが元村の始まりだった。1870年(明治3)、亀太郎は去ったが、この地の農業は雑穀、果樹栽培を経て、1880年(明治13年)に元村の中村磯吉が玉葱栽培に成功し、「日本の玉葱栽培発祥の地」となった。1902年(明治35)、元村、苗穂村、丘珠村、雁来村が合併して札幌村が誕生し、農産地として発展してきた。

このヤチダモの樹の周りには大きな木が多くあった。1965年(昭和40)頃まで、その脇に「馬鉄屋」があり、待ち時問にこれらの木に馬が繋がれていたとか。この地にある「札幌村郷土記念館」 「大友公園」は開拓の歴史を身近に伝えている。

私は、長い時問見続けたこの樹をやっと形にすることができ……ほっとした。

『美術ペン』111号(2004年2月5日発行)より

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