100年を越えたりんごの樹・生娘

―木に向かう(6)―

福岡幸一 (版画家)

仁木町に100年を越えるりんごの樹がある。明治の始め、北海道に新天地を求めて全国各地から1061戸が大江村(現=仁木町)に開拓移民として入植した。その後4代、5代と引き継がれ、現在その子孫6戸が残り住んでいる。その1戸にリンゴの樹「生娘」が在った。

この地域は山道村、大江村、仁木村から成り立っていた。仁木村で1881年(明治13)大江村で翌年、苗木が植えられたのが、この地のりんご栽培の始まりである。明治20年代に入りようやく風土に適応した栽培技術が開発され、1895年(明治27)にりんご専業農家が3戸生まれた。稲作栽培も1884年(明治18)には始まっていた。

「りんごの樹-生娘-」
2002年「りんごの樹-生娘-」(47.0cm×90.0cm)

2002年早春、仁木町民センターで私は個展の機会を得た。この機会に、葉を落とした時期のりんごの樹を描きたいと考えた。友人の果樹農家にお願いし、この地域の歴史と重なる樹を探してもらった。りんごの木の寿命は50年といわれ、100年を超える開拓当時の古木は今ではほとんど残っていなかったが、仁木町で「生娘」「紅玉」、隣の余市町で「緋之衣」の3本が見つかった。いずれも明治から大正時代に植えられた老木である。

私は、スケッチブックを片手に紹介された木に向かった。その木「生娘」は幹周りは21mもあってガッチリとし、横に大きな太い枝を張り、枝先を大地まで伸ばしている。りんごの樹の姿とは思えぬほど堂々としていた。その迫力に圧倒され、その場に立ちすくんだ。日を改め、全紙版の画用紙とコンパネを用意し、じっくりと樹を眺めた。太い枝は左右に伸びていたが、至る所に痛々しい傷痕がある。それは木の皮、木の芯まで腐らせる腐乱病の傷痕で、この百年の問に大きな被害が3回もあったという。この樹の後半40年はレッドゴールドの穂木を高継ぎされ、生娘の枝は次々と切られた。が、現在は僅かに残された元木の生娘にも枝が張り2種類のりんごが成っている。

下絵作りは個展の会期中から始まり、会期が終わっても続いた。その間、りんごの木を挟んで果樹園主等との交流が生まれた。「樹を見、樹齢を感じ、自分の人生、家族の成長を考える。果樹栽培は、子育てと同じだと思う」「この樹は、先祖が植えた木で、子供の時からそこに在り、その樹と遊んだ思い出もある。生きて来た人生がある。樹の命がある限り見守りたい」。果樹農家の言葉からは自信と誇りと優しさが伝わってきた。下絵が完成した時、こちらが恥ずかしくなるほど喜んでくれた。「絵を描いてくれたことで、この樹があったことが永久に残ります。いつ枯れるかわかりませんから」「いつ作品になりますか」……。

下絵を描き終えるまで剪定を待ってくれた。農園の主人から花芽のついた枝を数本貰った。4月の末、我家で一足先に花見ができた。普段目にする花よりも二周り程も大きい、白い花びらの先は淡い紅色をしていた。2ヶ月後、作品が完成した。

秋、その樹に成った生娘の実は、香り高くさっぱりとしたさわやかな味だった。

『美術ペン』112号(2004年6月5日発行)より

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