開拓期から生き続けたりんご・紅玉の樹

―木に向かう(7)―

福岡幸一 (版画家)

「紅玉」の樹は「生娘」と同じ仁木の農園にあった。その老木は、りんご、梨などの木がある奥に1、2本取り残される形で立っていた。樹は二股となり太い幹の1本は腐って根元から切り取られていた。話によれば、切られる前はその太い幹は根元から大きく手前に伸び、老樹としての風格を感じさせていたとか。テレビ局の取材を受けたこともあったという。現在は、残った幹がさらに二股となり、1本は空洞化し、樹皮の半分を失っていた。もう1本の幹は芯が長い間に剔られウロとなっていた。腐乱病の傷跡も残す。僅かに残った樹皮から新しい枝が出、育っていた。そしてこの枝に実がなるという。よくぞここまで甦ったものだ。そこには先祖の植えた木を大切に見守る農園主の思いがこもっている。樹齢は80年余。いとおしいほどかわいい樹である。10年ほど前、この地域の古い農園には開拓期の老木が至る所に残っていたという。この農園にも「紅魁」「緋之衣」の老樹が最近まであったという。そんな話を聞くと、私は20年もの長い間、りんごの仕入れにこの地仁木町へ通っていたのに、取材をする機会を作らずにいたのが、残念至極である。

「りんごの樹-紅玉-」
2002年「りんごの樹 - 紅玉 -」(45.0cm×63.6cm)

2002年、「生娘」の下絵を完成させ、引き続き「紅玉の樹」の下絵を描き始めた。雪降る日もあったが、何度も何度も樹と向き合い、下絵を完成させることができた。

この10年来「国光」「紅玉」を食べたいという声を聞く。だが、殆どの樹が切られて残っていない。果樹農家は「果樹作りは、先を見通しながら味の好みと時代の流れを読み、多くの種類を生産してきたんだ」と語る。その中で長期間保存のできる「国光」が母親で父親不祥の偶発実生種「ふじ」が生まれた。甘い味が主流の現在、酸味と甘みがほどよい味の「紅玉」は、食べても良し、ジュース、菓子にも最適である。その「紅玉」が見直され、数年前に大量に植えられた。「紅玉」が市場にだされる日は近いだろう。

りんごは、バラ科のりんご属。原生はヨーロッパ、アジア、北アメリカの3大陸に分布している。中国の野生種、林檎(リンキン)は平安時代(8~12世紀)に渡来。林檎(リンコウ)として長い間栽培され、ワリンゴ(ジリンゴ)と呼ばれていた。直径3.5cmほどの大きさで紅色をし、多少渋味がある。今は庭木として僅かに植えられている

現在食べられている西洋リンゴは、1868年(明治元)、プロシャ人(ドイツ)で農業指導者のアル・ガルトネル氏が七重村(現=七飯町)農場を開設し、1870年(明治3)、母国からりんごの苗木を取り寄せ植え付けたのが日本で最初である。1869年(明治2)、北海道開拓使が設置され、黒田清隆次官らがアメリカ人の農政家ケープロン氏を顧問に迎えた。彼は開拓使10年計画の一つ拓殖事業として主にアメリカ産、一部にカナダ産の果樹苗木各種を輸入した。1871年(明治4)、東京青山の官園で裁植試作し、翌年から9年間に約7割の42万本を北海道の官園(借楽園試験場)に送付し、普及・奨励した。その内りんごの苗木は75種84239本であった。この開拓使輸入りんごの中に日本の基幹品種「紅魁」「祝」「紅玉」「国光」が含まれていた。大正8年頃には道内各地で「紅玉」「国光」が適地適作の最重要品種となった。

農閑期に、この地で個展を開くことができた。そして、「果樹」を描く機会も得られた。果樹の木からは自然の木と違い、人の営みが色濃く伝わってくる。

『美術ペン』113号(2004年9月25日発行)より

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