余市のメスレーの樹を描く

―木に向かう(8)―

福岡幸一 (版画家)

2003年が明けた。仁木のオウトウと余市のスモモの積雪状況を確認に妻と出かけた。どの木も描くには支障はなかった。余市の農園では、チェンソーの音が鳴り響き数本のメスレー(スモモ)などの剪定作業が始まっていた。緋之衣の樹の脇にある描きたかった木、メスレーの太い枝を切り落すとのこと。私はあわてた。「時間を作り明日から来ます。この木の剪定作業を後回しにしてください」と農園主にお願いをした。

この木は昭和20年代に植えられたもので、樹齢50年を越えスモモ特有のねじれと多くのコブを持つ木である。メスレーは生育が早く主幹と副幹の4本が合わさり、今では太い幹となり四方に枝を張るバランスの良い樹形となっている。

「スモモ - メスレー -」
2003年「スモモ - メスレー -」(42.0cm×68.0cm)

札幌から余市までは往復4時間。次の日から下絵作りが始まった。走行中に雪が降り出し、現地の天気が気にかかる。果樹園に到着。早速両手でベニヤの画板を抱え、積雪のため肩の高さまでになったブドウ棚の下を、リンゴ園へ向け首を曲げ腰を屈め潜り続けた。やっと抜け出し、メスレーを描く地点に向かった。最初は木の雪を払う事から始まった。

1日の中で最も暖かい時間帯に2、3時間ねばり、ひたすら木と向き合う。近くではヒヨドリのビィービィーと鳴く声や、ギューンバリバリン、ギコギコ、パチンパチンと農園主の剪定作業の音がする。雪が休まず降り続ける。その雪を払いながら描き続ける。紙が濡れ中断せざるを得なくなったり、仕事が中止になることもあった。

この木の側に1本のさんなしの木があり、赤い実が鈴なりに残っていた。数日後、大雪が降った朝、さんなしの実は一個残らず消え、下には鳥が食べ散らかした皮だけがあった。

ある日、海から風が吹き、描いていた素手はもちろん防寒着を通して寒さが身体に刺さる日さらに、午後3時が廻ると陽が落ち、気温が一気に下がり身体の芯まで冷えきった。

このメスレーの樹は、私が考えた大きさの画面に樹形と若い枝先が計ったように収まった。通うこと7回、下絵が完成した。脇に立っている「緋之衣の樹」は長時間、描け描けと叫び、存在感を持って私に迫ってきた。次は「緋之衣」を描こう。

スモモはバラ科サクラ属のスモモ亜族。アジア、ヨーロッパ、北アメリカに原生分布している。ニホンスモモは中国で誕生し、我が国に渡来し『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに名前がある。江戸時代に栽培・普及。明治時代から大果品が巴旦杏(はたんきょう)とか牡丹杏と呼ばれるようになった。ヨーロッパスモモは欧米から輸入され、雨の少ない東北地方で栽培されていたという。北海道では1870年(明治3)開拓使によってアメリカから輸入されたが定着しなかった。ニホンスモモはアメリカで改良されて大正時代に輸入され、今日のスモモ品種の元となった。

メスレーはニホンスモモの雑種。別名レッドスターと呼ばれ、実も皮も真っ赤で、熟すと甘くて口の中でとろけるような舌触りである。

メスレーの版画が完成した。この樹のバランスの良さが画面の構成を支配した。

『美術ペン』114号(2005年1月20日発行)より

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