余市に、初生りのりんご緋之衣が生り続けている

―木に向かう(9)―

福岡幸一 (版画家)

2003年2月、雪の中で「緋之衣」の下絵の制作に取りかかった。1年前、りんごの古木がある余市の農園を紹介され、訪れた。農園主に案内された農園は、雪がまだ残り、緋之衣は剪定を終えていたこともあり樹形が不自然に見えた。私はどう描こうか気が重かった。

緋之衣の幹は大きなウロとなり、さらに、前と後ろにある2本の枝は朽ち、付け根には大きな穴があいていた。向こうの風景が見える。空洞の周りの残った幹を樹皮がしっかりと包み込んでいる。腐りが広がらないようにと守っているようだ。残った一本の主枝と他の枝元から若い枝の8本が実のなる枝へと育てられていた。剪定前の若い枝には新しい枝が育ち、その先に数え切れないほどの新芽がふくらみを見せている。

「りんごの樹 - 緋之衣 -」
2003年「りんごの樹 - 緋之衣 -」(36.5cm×73.0cm)

命のエネルギーがほとばしっていた。描かないではいられない、1枝残らず描きとどめたいという高揚を私は感じはじめていた。農園の中は音も無く太陽だけが動いていた。仕上げの日も天気が良く、早朝から夕方までの一日中、樹と向き合った。やっと完成した下絵を見た、農園主の顔には安堵の表情が見えたが、彼は「もっと右の角度からのほうが良いのに」と、つぶやいた。彼が最も風格を感じる角度であったのだろう。私は、改めて下絵を眺めた。これでもかこれでもかと枝が描き込まれている。しかし、このままでは絵にならない。が、描いた枝を消したくはない。まずは、予定より画面を広げ構図を取り直してみた。それでも右に下がった枝をどうするか、課題は残った。

「緋之衣」の名前の由来を探してみた。江戸幕末の混乱期、会津藩は天皇を守る「京都守護職」に任命される。孝明天皇はその労をねぎらい藩主・松平容保に緋色の織物を贈り、その布は「陣羽織」に仕立てられた。倒幕後、行き場を失った旧会津藩士たちは1871年(明治4)明治政府の募集に応じ北の守り手として黒川村、山田村(現=余市町山田町)に169戸が移住した。1875年(明治8)、北海道開拓使から配布されたりんごの苗木は、4年後、旧藩士・赤羽源八の農園で赤いりんごが初生りした。余市は民間の「りんご発祥の地」となった。その赤い実は会津藩主が着た「陣羽織」の晴れ姿に思いをはせて「緋之衣」と名付けられた。昭和30年代に入り「ふじ」が生産されるようになり、時代の流れには勝てず「緋之衣」を泣きながら斧で倒す農園主達の姿があったと言う。

この初代農園主が開拓期に植えた緋之衣の樹は、現3代目がこの地域の歴史を語る「生き証人」として残し、今ではこの1本だけになっている。樹齢80年になるという。農園の母屋は大正の始めに会津造りで建てられたもので90年ほどになるが、北の大地にすっかりなじんでいる。入植して5代。現在は4世代の7人が暮らしている。夏になると納屋の売り場に果物が並び始める。緋之衣は、収穫量は9kgの箱で12、13ケース。全盛期の半分の量に減らして大切に生産されてきた。そのりんごは蜜入りで甘いが、さばさばした食感である。ここは観光農園としても先駆的な役割を果し、りんご園の中には余市で初めて掘り当てた温泉も湧いている。

秋、緋之衣の枝先は地面に付く程たわわに実をつけている。その様子は圧巻だ。葉を落とした樹形にしか興味が無かった私が「実をつけたりんごの樹」を描きたくなった。

『美術ペン』115号(2005年5月20日発行)より

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