オウトウ「大紫おおむらさき」は無剪定だった

―木に向かう(11)―

福岡幸一 (版画家)

今から70年ほど前、余市川沿いのりんご畑の端に、オウトウ「大紫」4本が風除けとして植えられた。オウトウの収穫期はりんごの袋掛けと重なり手が廻らず、一本丸ごと売る「青田売り」で「大紫」は売買されていた。青果業者が3、4人で1チームを作り、梯子を使って木に登り、番線を巧みに利用し枝を引っ掛け収穫をしていたという。

1958年(昭和33)頃、りんごの薬剤散布の機械化でオウトウにも目が向けられ、剪定が行われるようになった。しかし、時代の流れと共に新しい品種が栽培され「大紫」は市場に出回ることが無くなった。今、すでにりんご園は無く、オウトウ「大紫」の一本がとり残されたかのように残っている。隣家の農園のサクランボ「北光」などに花粉が飛び、別種のため、多収穫をもたらし貢献し続けてきたという。

2003年の早春、何度となく見続けてきたこの「大紫」の下絵作りに取りかかった。高さ8mになったこの樹は自然のまま野生化したのだろう。腰を据えなければ描けないという想いにさせられた。

オウトウ - 大紫-
2003年 オウトウ - 大紫- (58.0cm×58.0cm)

樹齢70年、太い幹の木肌には僅かにサクラ属の特徴である横筋が残っている。幹周りは2mを越え「ウロ」は見つからなかった。樹形はどの方向から観ても扇の形をしている。自然にある木と外観は同じ様に見えるが、よく見るとぎすぎすしていた。それは幹、枝のいたる処から果樹の特徴である芯が立ち、それらが樹形の一翼を成しているからだった。また、枯れた枝元を樹皮が包み込み、これ以上枯れることがないように守っていた。生き残った枝元から新しい枝が出て太く育っていた。農園主は「一度も剪定したことは無かった」と言い切った。無剪定で長期間かけて生き続けた野生の姿がそこにあった。私は空に真っ直ぐ伸びた芯と、枯れて残った枝先を描き続けた。半月ほどで下絵は完成した。私は木の周りにあった、フキノトウ、コゴミ、ササノコ、ヨモギ、ツクシなどの山菜を持ち帰り、春を味わった。

2003年秋、作品の制作に入った。人の手が入らず自然のままで生き続けた無剪定のこの樹ではあるが、果樹の持っている特徴が失われていないことを、作品を作る過程で何度も確認することができた。この樹を何時までも大切に保存して貰いたいと願っている。

オウトウはバラ科サクラ属ウワミズサクラ亜属。ヨーロッパと東アジアで分布している。我が国には、1873、4年(明治6、7)、モモの苗木と共に中国から移入。また、1874、5年(明治7、8)開拓使によりアメリカ、ヨーロッパから多数の品種が導入され、北海道、東北、甲信地方で栽培・普及が始まった。大正時代の余市地域には「ナポレオン」「北光」「別甲」「日の出」「大紫」などが栽培されていた。

しかし特筆すべきは山形県である。明治の30年間に栽培技術を確立。大正の始め「佐藤錦」の品種が育成された。昭和12年頃には10万本を越える栽培で全国的な特産物となり、オウトウ普及の元となったという。

『美術ペン』117号(2005年12月25日発行)より

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